これまで当サイトでは、開示義務化、地政学リスク、円安、ガバナンスといったテーマを取り上げてきました。しかし、中小企業の経営者にお会いして最も多く聞く悩みは、実はもっと切実なものです。 「人が採れない」「入ってもすぐ辞めてしまう」。 この問題は、ESGの三文字のうち「S(Social・社会)」と正面から重なります。そして、E(環境)やG(ガバナンス)と違って、成果が最も早く、目に見える形で現れる領域でもあります。 ■ なぜ「S」が採用に効くのか ESGにおけるSは、従業員の労働環境、多様性、健康と安全、地域との関係などを指します。抽象的に聞こえますが、求職者の視点に翻訳すると極めて具体的です。 ・残業はどれくらいあるのか ・有給休暇は実際に取れるのか ・育児や介護と両立できるのか ・ハラスメントに対して会社はどう対応するのか ・評価と昇給の基準は明確か 求職者、特に若い世代は、求人票の給与額だけでなく、こうした点を口コミサイトやSNSで調べたうえで応募先を決めています。給与で大企業と競うことが難しい中小企業にとって、ここは数少ない勝負どころです。 ■ 「やっているのに伝わっていない」問題 中小企業を訪問していて痛感するのは、実は多くの会社がすでに良いことをしているという事実です。 家庭の事情に柔軟に対応している。体調が悪ければ無理をさせない。子どもの行事があれば休ませる。長く働いている従業員が多い。——こうした実態がありながら、それが一切外に発信されていないケースが非常に多いのです。 大企業は同じことを「ワークライフバランス推進」「多様な働き方の支援」と名前をつけて、統合報告書に書き、採用サイトに載せます。中小企業は、同じことをしていながら「うちは普通のことをしているだけ」と考えて、何も言いません。 この差が、採用市場での見え方の差になります。 ■ 制度化することの意味 ただし、「社長の裁量で柔軟に対応している」状態には限界もあります。 求職者から見ると、それは「社長次第」ということです。今の社長は理解があっても、次はわからない。制度として保証されていない配慮は、外部からは信用しにくいのです。 ここで前回のガバナンスの話とつながります。属人的な運用をルールとして明文化することは、ガバナンスの整備であると同時に、Sの取り組みを見える化する作業でもあります。就業規則に書き、社内に掲示し、求人票に載せる。それだけで、同じ実態が外部から評価される形に変わります。 ■ 中小企業が取り組みやすい5つのこと 1. 実態の棚卸し まず、すでにやっていることを書き出してください。有給取得率、平均勤続年数、育児休業の取得実績、資格取得の支援。数字にできるものは数字にします。意外と誇れる数字が出てくるはずです。 2. ハラスメント対策の明示 方針を文書化し、相談窓口を明示する。中小企業でも法令上の義務が課されている領域であり、取引先のアンケートでも必ず問われる項目です。 3. 労働時間と休暇の実態改善 人が辞める理由の上位は、常にここにあります。制度より実態です。 4. 評価と処遇の基準づくり 完璧な人事制度は要りません。「どうすれば給与が上がるのか」を説明できる状態を目指してください。 5. 発信する 自社サイトや求人票に、取り組みと数字を書く。ここまでやって初めて、採用市場に届きます。 ■ 取引先からも問われる時代に Sへの取り組みは、採用だけの話ではありません。 大企業のサプライチェーンに入っている企業では、労働環境や人権に関する確認が年々厳しくなっています。海外では人権デューデリジェンスの法制化が進み、日本企業も自社の取引先に対して同様の確認を求める動きが広がっています。 「従業員を大切にしている」という実態を、外部に説明できる形で持っておくこと。それは採用市場と取引先の双方に効く、二重の備えになります。 ■ おわりに 人手不足は、景気の波とは異なる構造的な変化です。労働力人口が減少していく以上、この状況が短期間で解消される見通しは立ちません。 その中で選ばれる会社になるために、新たに大きな投資をする必要はありません。すでにやっている良いことを整理し、ルールとして定着させ、外に伝える。この三段階を踏むだけで、多くの中小企業は今より確実に「選ばれる会社」に近づけると考えています。 ESGのSは、社会貢献のための負担ではありません。人が集まり、定着する会社をつくるための、最も実利的な取り組みです。 ▶ 当サイトの「ESGラクラク診断」では、労働環境やハラスメント対策を含むS項目についても診断できます。自社の現在地の確認にご利用ください。